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ふと、職場で感じる「なぜ」や戸惑いを、スッキリさせるブログです

異聞 「杏林」 外伝

 『神仙伝』や『太平広記』などに登場する「杏林(きょうりん)」
の小伝を思い起こすたびに、董奉
(とうほう、建安の3名医の1人)
の人柄に憧れのような心情を抱いてしまいます。

 そこで今回は、この「杏林」の話を余技に書き改めた習作、
『杏林の里』を掲載しました。
 ご関心を抱かれた方は、どうか原典をご覧いただければと思います。

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 『杏林の里』

安住の地を求めて

  時は、三国志に登場する曹操が実権を握る時代、
後に「建安の三名医」の1人と謳われる董奉(とうほう)
という人がいました。

 幾多の難病を治療し、その医術の腕前は近隣にも知れ渡っており、
董奉を頼って、諸侯の高官や豪商たちが、病の助けを求めてきました。

 ところが当時は、後漢から三国時代に移り変わる騒乱の最中で、
董奉がひと筋に医術を施しても、戦禍や政争をめぐって亡くなったり、
大怪我をすることが常態でした。
 田畑を荒らされる農民とて、例外ではありません。

廬山の山奥に移住

 そのような世上を疎ましく感じた董奉は、
豫章郡にある廬山(ろざん)に移り、その山奥で耕作もせず、
悠々自適の生活を送るようになっていました。

 廬山の麓(ふもと)にある村の民は、貧しくて素養がなかったので、
董奉の名を知る由もなく、風変わりな男が、山奥に住み着いたように
思っていました。

 董奉が移ってきた当初は、しきりに、諸侯の高官が用いる馬車が、
廬山をぐるぐると周回するようにして山奥に向かっていきますが、
董奉が馬車に乗って下山する姿は、誰も見たことがありませんでした。

 

見返りなき医術

 そんなある日、董奉が街道筋の市場に向かうため、山奥の住処(すみか)から下ってくると、麓の村が騒がしくなっていました。

 人だかりの方を見るとはなしに見てみると、
村の有力者らしき家の娘が高熱を出して、重篤の様態です。

 董奉は、すぐさま瀕死の村娘を山奥の住処に連れてゆき、
生薬を調合して医術を施しました。
 そのまま数日間施術を続けると、村娘の様態は少しずつ快方に向かい、
1か月もしないうちに、歩けるまで回復しました。

ざわめく麓の村

 もう村中、てんやわんやの大騒ぎです。
 村娘の親である有力者は、お礼として、わずかながらも、
ありったけの蓄財を董奉に差し出しましたが、
董奉は、しらっとした顔で、

「 人に尽くすために医術を施しているので、
 そのような見返りは不要です。」
と言って、一切受け取りません。

 この麓の村には、貧しくて病を診てもらえない民が大勢いたので、
董奉は、寸暇を惜しんで彼らに医術を施していきました。
 そして誰がお礼をしようとしても、やはり董奉は受け取ろうと
しませんでした。

 

村の衆の陳情 

  ある日、村の長と有力者たちが、山奥の董奉の住処にやってきました。
「 これは、いかがされましたかな。
  どなたか、病を患っているのですか。」

 董奉が心配そうに尋ねると、村の長が、

「 いいえ、董奉先生のお蔭で、
 村人たちの病はすっかり治りました。
  みな、元気に田畑を耕したり、 
 それぞれの商いに勤(いそ)しんでいます。
  この度は、村の衆全員の気持ちを代弁して、
 申し上げたい事柄があってまいりました。」

と述べると、そこに居合わせた村の有力者たちは、
董奉に向かって正座をしました。

「 董奉先生は、麓の村にとって命の恩人であるにもかかわらず、
 私どもは、何の恩返しもできていません。
  見てのとおり、村のほとんどの民は貧しく、
 教養も持ち合わせていませんが、
 いただいたご恩に報いられないような、恥知らずではございません。
  どうか恩返しとして、何かお役に立つことをさせてください。」
と願い出ました。

董奉のひらめき

 村の衆の意志が堅いと悟った董奉は、しばらく考え込んでいましたが、
何かを思いついたように膝をポンと叩き、
おもむろに村の長たちに話かけました。

「 麓の村の衆の貴い気持ちは、よう分かりました。
  それではひとつ、手伝ってもらいたいことがあります。」
「 それは、いったい何でしょうか。」
「 実は、杏(あんず)の実や苗を集めてもらいたいのです。
  それも、できるだけたくさん。
  ひと月後に、この住処に運んでもらえますかな。」
「 杏の実や苗…ですか、ええ、それならできますが…」

 董奉が田畑を耕さないことは、村の衆ならだれでも知っているので、
これを聞いた村の長たちは、腑に落ちない面持ちで
廬山を下ってゆきました。

 

腑に落ちない願い事 

 ちょうどひと月経った頃、村の長やお世話になった村の民が、
杏の実や苗を目一杯積み込んだ荷車を、えっこらやっこら押して、
董奉の住処にたどり着きました。

「 董奉先生、いらっしゃいますか。
  ご所望の品物を持ってまいりました。」
「 これほど持ってきてくださるとは…これは大義でした。
  お礼を申し上げます。」
「 それで董奉先生、
 この品物を、いったいどうするおつもりでしょうか。」
「 それなんだが、患った病が治った者には、その思い出として、
 そこに積まれている杏の種を蒔くか、その苗を植えてもらいたい
 のです。」

奇才か呆けか 

 村の衆は、またもや、驚きを隠せませんでした。
「 やっぱり、董奉先生は呆(ほう)けている。」
と疑う者もいたほどです。
 医術に長けた先生が、杏の種を蒔いたり植えてほしいという理由が、
どうしても思い当たらなかったのです。

 それをよそに、董奉は続けて、
「 症状が軽い病が治った者は、1粒の種を蒔くか1株の苗木を植えて、
 また、重病を患って治った者は、5粒の種を蒔くか5株の苗木を
 植えてほしいのです。
  この奥深い住処の周りから始めて、
 山道に沿うようにして麓の村に至るまで、順送りに種を蒔き、
 苗木を植えてくださらんか。」
と和やかに話をしました。

 

廬山の衣替え  

 その後も董奉は、村の民が病を患うたびに医術を施し、
見返りを受け取ろうとはしませんでした。
 こんな具合ですから、董奉の噂は、瞬く間に近隣の村々へ広がり、
廬山の山奥にもかかわらず、董奉の住処には、病を患った者が
近隣からも集まってくるようになりました。

 そして病が治った者たちは、慶(よろこ)んで次から次へと
杏の種を蒔き、苗木を植えていきます。

 数年が過ぎた頃、杏の樹々は2メートル程に伸び、
奥深い董奉の住処の周辺が、杏の樹々で囲まれるようになりました。
 廬山の肌寒い気候が、杏の生育に適していたことを、
董奉は知っていたのです。

淡い桃色の花が咲き溢れた

 そうこうするうち、十万余の杏の樹々が廬山一面に茂り、
さらに、山中の鳥獣を杏の林に放って戯れさせたため、
杏の樹の下には雑草が生えることがありませんでした。

 3月から4月頃の春先になると、廬山全体にわたって、
一斉に淡い桃色の花が咲き溢(あふ)れました。
 廬山一体が可憐な桃色に染まるのですから、遠方からでも目立ちます。

 そして6月から7月頃になると、今度は、橙色の大粒の杏の果実が、
こぼれるほど収穫することができました。

 杏子の種を蒔き、苗を植えた村の衆でさえ、想像ができないほど、
薄い桃色の花々が、麓の村を取り囲むように咲き匂いました。
 

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引き換えの計 

 あるとき、董奉は、杏の実が成熟していくのをじっと眺めていると、
ふと、何かに気づいたように、村の衆に手伝ってもらって、
小高いところの杏の林に、
茅(かや)などの草で屋根を葺(ふ)いた、倉を建てました。 

 倉の前には、
「 もし、廬山の杏がほしいのであれば、ことわりをせずに、
 ひと籠(かご)分の穀物を倉の中に置いてもらえれば、
 同じ量の杏をもぎ取ってもらって結構です。」
という看板が立てられています。

 そうです。董奉は、杏の実と穀類を引き換えることに気づいたのでした。

 

旅人が夢見た桃源郷  

 こうして麓の村の生活は、杏の樹々が増えるにつれ、
豊かになってゆきました。

 廬山の麓にたどり着いた旅人たちは、村の民の案内で杏の林の中へ入り、
樹上に実っている食べ頃の杏を心ゆくまで味わうことができたばかりか、
地元の宿に泊まって、思いやりのある歓迎を受けたのでした。

 こうした旅人の中には、諸侯の高官や役人がいたので、
村の民は、周辺地域の詳しい出来事を聞けたほか、
高名な僧侶や儒者たちから、奥深い教養や教義を直に教えてもらう
ことができました。

 いつしか、麓の村のある者は、周辺地域の政治情勢や特産物の特色を
覚えたり、また、ある者は、杏の種(杏仁)を咳止めの生薬として調合する
など、医術の心得を身に付けていました。

麓の村が「往来の要所」

 春先の杏の花が咲き誇る頃、
街道の遠方から廬山の杏の花々を見つけた旅人たちは、
「 あれが杏林だ、満開の杏林が見えたぞ。」
「 杏林に、やっとたどり着いた。もうこれで心配はいらない。」
と口々に叫び、歓び合うのが常でした。

 廬山一面に杏林が見えるということは、
有り余るほどの甘い杏で喉を潤せるだけでなく、
周辺の治安情勢を知ることができ、
新興の思想や宗教を学べることを意味したのです。

 また、費用の足りない旅人や近隣の貧しい民には、
杏の果実と交換した穀物が、等しく分け与えられ、
その穀物の量は、二万升余りにも達したと言われます。
 ですから旅人たちは、少し遠回りしてでも、一途に杏林の廬山を
目指したのでした。

 

不心得者、ついに現る 

 ある日のこと、隣村の不心得者が、
倉に持ち込んだ穀物より多くの杏の果実をもぎ取って逃げようと
したところ、村の衆がこれに気づきました。

 この者は杏の果実をどっさり抱いて、途中で七転八倒しながらも、
やっとのことで逃げ切り、自家で懐(ふところ)の杏の果実を
覗いてみると、なんと持ち込んだ穀物と同じ量に減っていました。

 また、別の日、遠方から来た若者が、
山盛りの杏を積んだ荷車を押して逃げようとしていた時、
多勢の村の民に見つかってしまい、息も絶え絶えに叩きのめされました。

 知らせを受けて駆けつけた董奉は、
憤りを隠せない村の衆を落ち着かせると、まだ若い盗人に対して、
盗んだわけを物静かに尋ねました。

 すると盗人は、涙ぐみながら、

「 嫁ぐはずの妹が不治の病で寝たきりになって、
 万病に効くという廬山の杏を絞って飲ませたかった。」
と白状しました。

医は仁術なり

 その態度から、董奉は盗人の言を信じ、山盛りの荷車だけでなく、
妹の病状に合う生薬を調合して渡しました。

「 これで妹の病状は少しだけ楽になるので、そうしたら山奥の住処
 に連れて来なさい。それから本格的に医術を施せばよい。」

 これを聞いた若い盗人は、董奉の顔をまともに見ることもできず、
むせび泣きながらお礼を言って、すごすごと山盛りの荷車を引いて、
立ち去ってゆきました。

 近隣の村に帰った盗人は、すぐさま、たっぷりと擦った杏の汁を
妹に飲ませ、董奉からもらった調合薬を言いつけどおりに、
毎日飲ませました。
 すると、かいがいしく介抱したことも重なって、痩せこけた妹は、
みるみるうちに生気を取り戻したのです。

 そこで若い盗人は、荷車に妹を乗せて、
廬山の奥深い住処に連れて行き、そこで半年もかからずに、
妹の難病は治りました。

 

杏林への道 

 董奉の人柄に接した若い盗人は大いに改心し、
己の村から廬山の麓の村までの街道沿いに、来る日も来る日も、
杏の種を蒔き、苗を植え続けました。

 その姿を目にした諸侯の高官は、青年の律儀さにいたく感心し、
臣下として取り立てたのです。
 青年だった盗人は、
いまや近隣地域を取り仕切る立派な役人に出世し、
廬山の麓に至る幾つもの街道を警護する役目を仰せつかりました。

「杏林の里」の口伝

「 あの廬山いっぱいに咲いている、美しい杏の花は、いくつあるの。」
と、麓の村の童たちが尋ねると、決まって村の衆は、
「 廬山一面に咲き誇っている可憐な杏の花は、
 董奉先生に助けられた淡い命そのもの。
  董奉先生の仁徳に際限がないように、
 誰も杏の花を数えたことがないんだよ。」
と言い伝えるのでした。

 いつしか董奉は、麓の村の衆だけでなく、遠くの村々の民からも、
「杏林先生」と慕われるようになっていました。
 そして廬山の麓の村は、董奉の仁徳を受け継ぐ「杏林の里」として、
いつまでも栄え続けました。

以上